全面禁煙とゆとり

川崎の小学校で、校内全面禁煙にもかかわらず、校長がたばこを吸い、それが原因でぼやが起こるという騒動があった。校長は陳謝、減給の上、再就職もパーだとか。


私はたばこを吸わない。そしてたばこ大国の中国にいると、公共スペースでの喫煙は、つくづく迷惑だからやめてほしいと日々思う。だから「全面禁煙」という言葉は大好きだ。けれど同時に、その極端さと狭義さは、どこかでゆがみを生むとも考えている。


テレビのニュースでコメントを求められた父兄は、「今回はボヤでよかったものの、これが火事になったら」と眉をひそめた。確かに、大火事になっていた可能性は否定できない。あるいはたまたまぼやが起きたから発覚したが、校長先生の隠れたばこはこれが初めてでなかったかもしれない。


それでも私はあえてここは、「まあまあ、ボヤでよかったよ」というべきところではなかったのかと思う。全面禁煙でなければ、火を消したたばこを紙に包んでゴミ箱に捨てるなんて、あほらしいことはしなかっただろう。そう考えると、校長先生はくそまじめで小心者だったのかもしれない。テレビに映った先生は、すっかり恐縮しきっていた。


その校長先生を、「全面禁煙なのに学校の責任者が隠れ煙草した!」とバッシングしたところで、たぶん問題の根本は解決されない。それは特に学校のように、1日の半分以上をそこで過ごさなければならない人々が常駐する場所での「全面禁煙」では、「どーーしてもたばこを吸わずにいられない一部の人々」による隠れたばこと、それが原因で起こりうる火事の可能性が残るからだ。


問題は、たばこを吸う人と吸わない人との間で、双方が気持ちよくできるルールづくりをすることであって、吸わない人を全面的にシャットアウトすることではない。もっとも世界的に「全面禁煙」のムードが高まり、喫煙者はバッシングされる運命(?)にあるのかもしれない。それでも、そんなにヒステリックにキチキチしないでも、ほんのちょっと、ゆとりみたいなものがあってもいいじゃないか、と思う。