格差社会@中国

日本で格差社会が取り上げられている。格差といえば、中国もなかなか極端な格差社会である。それが国の構造から生まれるという点では、日本も中国も似たようなものかもしれないが、格差の質はだいぶ異なる。日本では無気力のないないづくしさが国を危うくする。一方、中国のそれはどん底の行き場のない絶望とそれゆえの黒いエネルギーが国を危うくする。


北京で、バスに乗っているとさまざまな顔にあう。路上を這う足のない物乞いや鼻をたらした黒い顔の子供の物乞い。なまりと赤ら顔ですぐにそれとわかる地方労働者、服をたんまりと着込んだ丸い顔のシワの深い老婆、地方から出てきたばかりのようなあどけない顔の女の子たち、バックパックを背負い、MP3で音楽を聴いている学生、制服代わりのジャージ姿でくっつきあっている中学生カップル、モードな髪型をして化粧もばっちりの夜が似合いそうな女性、バックを脇に抱えた腹の出たサラリーマン、携帯片手に大きな声でおしゃべりをしている仕事帰りらしいおばさん。


この国には、さまざまな層がある。その差が開くことは想像できても、縮まるところはなかなか思い描けない。中の上中下が中か中の上になってゆく一方で、下層はつねに生み出される。


貧民街に行ったことがある。街のメインストリートは据えた匂いが充満していた。道端に木と組み、布を張った「家」で暮している男が、「これが俺たちの飯だ」と見せたものは、小さな鍋の中の濁った雑炊のようなものだった。


彼らを等しく救済するシステムは、残念ながら今のところこの国にはない。彼らは疲れ果て絶望していると言うが、権利に目覚めるとそれはエネルギーとパワーに変わる。それがこの国のバランスを危ういものにしている。


また同時に、中国の都市部では「勝ち組」と「負け組」から格差が生まれている。上海でも北京でも「ニート」の問題が話題に上る。その格差は、日本のそれに近似している。この点で、中国は格差が二重苦の国になりつつある。今のところ、イケイケで元気でいい感じのこの国だが、ふとその格差の谷間を見ると、この先、どこに行くのだろうかと思う。