愛国ドリーム

小泉首相靖国参拝について、バッシングの集中砲火が続いている。新華網の「怒斥」と書かれたBBSにはメッセージが続々と寄せられ、記事のタイトルでは「小泉拝鬼」とののしられ、「人類の良知と国際正義に対する挑戦」と、話は人類にまで広がってゆく。


それでもたとえば、北京で開催中の通信設備技術博覧会に行くと、最近、iモードを中国で推進中のドコモやNECパナソニック富士通などの日本企業ブースは中国人で溢れている。ドコモのブースでは、中国人ビジネスマンが通訳を介して、お財布携帯の機能について熱心に話を聞いていた。


「愛国」というのが、仮に国が強く豊かになることを願うことであるとするならば、靖国神社にはそうした「愛国」ドリームが残る。かつての侵略によって国力を拡大しようとした日本のやり方は、国を豊かにするための1手段だったとも言えるし、それがルールを超えていたかといえば、そもそもあの時代にルールなど意味があったのだろうかということもできる。そして国に殉じた人々は、今も日本の「愛国」ドリームの求心力となる。


靖国参拝について中国がののしろうが、アメリカのメディアがケチつけようが、日本の多くのメディアが反対を唱えようが、そもそも、日本があの時代を完全に否定することはないだろう。参拝の損得は説けても、その是非に結論が出るようには思えない。「愛国」は、自国では裁けない。そして、たとえ多くの日本人があからさまな「愛国」に違和感や嫌悪感を感じたとしても、「強い日本国」を求める想いは続いてゆく。


一方、過去を反省しろという中国は愛国教育には熱心だ。「愛国無罪」といって反日デモも起こる。愛国を無罪だというならば、日本のかつての軍事主義も無罪である。もちろん、日本が犯した罪はけして無罪にはならないと言われるだろうが。


私の祖父は35歳で太平洋のどこかに沈んだそうである。そして紙切れ1枚の戦死公報で、靖国神社に祭られ、政治に利用されていると、祖父の娘すなわち私の母は靖国神社を嫌う。私自身は特別な感慨はない。ただ、その後80歳まで生きた祖母も、再婚相手の祖父も、2人とももう鬼籍の人である。