撫順

晴天。瀋陽から撫順に向かう。電車で約1時間。古いを通り越してぼろい車両は、身動きも取れないほどの人で、そのなかを切符点検の車掌とフィルム売りのおばさんが人を掻き分け進んでくる。途中の駅で大半の人が降りてしまうと、車掌も販売員のおばさんも、空いたシートに座ってのんびりおしゃべりを始めた。窓の外には赤いレンガ造りの屋根の低い古い農家が続いていた。


撫順郊外には、1932年、旧日本軍が村人3000人を虐殺したと伝えられる平頂山があり、当時の遺骨群が記念館となって残されている。なお、この平頂山事件の生存者による対日訴訟は、今年5月、東京高等裁で棄却され、最高裁に控訴中である。


撫順は露天掘りの炭坑で知られた石炭都市。駅舎は壁がはがれかけて気の毒な古さだが、駅前にはマックもケンタもあり、新しいタクシーがアリの行列のように通りをふさいでいる。


市内の路線バスで、20分少々。がらんとした田舎の一本道でポンと降ろされた先が撫順市博物館とそれに併設された平頂山事件の記念館だった。入場料10元。博物館のほうは朽ち果てた廃虚のごとくで閉まっており、軍服姿の門番のおじさんが、「2008年のオリンピック前までには、新しくなるはずなんだ」と歯のかけた日焼け顔で笑った。


惨案遺址の館内には散乱した遺骨の発掘現場がそのまま残され、周囲には花輪が並べられている。市政府のものもあれば、日本の代表団や企業のものもあり、折り鶴には「日中平和」の文字が続く。先客にはアメリカ人と中国人のカップル、中国人グループなどがいて、なかなかの人の入りである。同施設の設立は1971年とのこと。おりしも日中国交正常化の前年で、以来30年以上、この白骨化した人々とそれにまつわる惨事の逸話が集客してきたことになる。


出口でパンフレットを買おうと、ガラスケースだけの売店に寄ると人がいない。「すみませーん」と声をかけると、軍服姿のおじさんががにまたでやってきて、「日本人かい?」とニコニコ笑う。おじさんのズボンからはシャツが少しはみ出していた。


外に出ると、強い日差しのなか、かすかな虫の声以外、何の音もしなかった。瀋陽も撫順も、車のクラクションと人の喧騒で耳が壊れるばかりに音が溢れている。ここでは音の変わりに、秋の木の葉のにおいがした。


市内に戻り、戦犯管理所旧址による。ラストエンペラー溥儀も収監されていたかつての監獄で、館内のパネルではいかに皇帝が愛国者になったかを解説していた。客らしい客はほとんどおらず、中庭の日だまりでは、作業員らしいおじさんたちがおしゃべりに興じている。


門の外に出ると、隣の市政府の刑務所から行進してきた若い兵士が、見張り台の下で止まり、交代の間、退屈そうに植え込みの潅木の葉をむしっていた。


明日は大連に移動する。